總持寺の法話を聞いて思ったこと

曹洞宗大本山の一つである神奈川県鶴見市にある「總持寺」の法話を聞いてきました。
20代中頃から30代前半まで坐禅会にはまっていた私。
現在はお寺からは遠のいていましたが、余裕が出てきたので再開しようと思い、そこでまずは本山である總持寺で毎月行われている「法話」を聞きに行きました。
總持寺「法話」
内容
總持寺の「法話」は、総持寺の中にある広い居間で行われました。
数十人くらいの修行中の運水さんたちと、半分は一般の参加者で合計50人以上の参加者といったところでしょうか。
ちょうど9月ということでお彼岸にちなんだ内容でした。お彼岸とは年に2回春と秋に訪れ、お墓参りをしたりお坊さんがお経を読みに来てくれたりします。
彼岸に関する内容から話が広く展開され、法話をするお坊さんのおばぁさんの話から、修行中の話、職人の話など、ゆっくりな話し方で平易な内容で誰もが分かりやすいお話でした。
一言でいうならば、「ご先祖様があって今がある」とおっしゃっていました。
父のことを思い出す
總持寺の「法話」に出かけたころは、丁度私は、父のことを思い出しており、親に大切にされなかったトラウマに苦しめられアダルトチルドレンの自助グループを再開していました。
父は、動く病人のような人で、今思えばなんか病名が付くのか突かないのか分からないような人間でした。
父がいることによってこれほど苦しんだために、子供のころに両親が離婚してくれればこれほど苦しまなくてよかったのにとも思っていました。
「ご先祖様があって今がある」というお坊さんのいうことは真実にも聞こえるけど、それはプラスの影響だけを見た場合じゃない? とも思います。
確かに、父が働いたお金で子供たちも生活してたけど産んだんだから当たり前だし、それ以上の苦しみを与えられたわけだから。
「ご先祖様があって今がある」というのは、人間はつながっているんだという意味だと思うけど、でもマイナスでしかない存在の場合はつながっていると言えるでしょうか。マイナスのダメージとしてつながっているとも言えますが。その場合「ご先祖様があって今の苦しみがある」という言い方になります。
要はつながりというのはプラスの場合とマイナスの場合がありうるということになるけど、マイナスがあまりにでかい場合は迷惑でしかありません。
お坊さんには相性がある
若かりしとき、坐禅会や仏教講義にはまったけど、それってその指導者との相性とそこまでの距離で決まっていたと思う。
お坊さんとの相性
今思えば坐禅会には沢山行ったけど、本当に心惹かれるお坊さんは2人だった。それは偶然の出会いだったし、求めたのかどうかも分からない。
悪い意味でヤバイと感じるお坊さんもいたし色々だった。本とか出しているようなお坊さんの講義も聞いたし、慣れているので楽しくはあったけど共感はできなかった。
なのでお坊さんとの出会いは偶然であり、相性がすごく大事だと思いました。私は仏教に強く惹かれているとずっと思っていました。
確かにそうなんだけど、言い換えれば偶然出会ったお坊さんの人柄に魅かれてその人を通じて仏教を見ていたのではないだろうか。
距離
お寺までの距離によって、そのお坊さんの講義を聞きに行きたいと思うかどうかが決まる言うのは随分軽薄な感じもします。
でも、やはり東京で働いていた時は、会社帰りにいくらでも坐禅会や講義に行くことが可能でした。興味があれば身軽に都内のお寺の坐禅会や講義に参加できる立場にありました。
詰まらなければ次行かなくていいし、失敗しても会社帰りの数時間のリスクなので大した損失は感じませんでした。
都内の坐禅会巡りをしていたといっても当時でせいぜい5か所~7か所くらい行っただけとは思います。
特別話が面白いわけじゃないけど嫌いでもないお坊さんの坐禅会に通っていたこともあって、単純にアパート5分くらいで通えたからだ。たまにはお寺で座禅するのもいいかな程度で参加していた。
良いお坊さんとの出会いは奇跡
久しぶりにお寺に行ってみて感じたのは良いお坊さんとの出会いは奇跡に近いということです。
いきなりどこかのお寺にフラッと出かけたら偶然出会えるというたぐいのものではないのです。そのため私が若い頃に出会った心惹かれるお坊さんとの出会いというのは人生の中で貴重な出会いであり、もう2度とないことなんだとお思いました。また自分自身の心の風景も当時とは違うから仏教に求める事が違うのだとも思います。
もちろん良いお坊さんというのは、それぞれの人にとっての良いお坊さんです。絶対的な尺度があってこの人が良いお坊さんという意味ではありません。
おそらくそれは人生の方向性が合うみたいな出会いなんだと思います。
